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COLUMN

- コラム

「月刊クリンネス」に掲載された
過去の連載コラムの中から、
テーマ別に選りすぐりの記事をご紹介します。
(執筆者や本文の情報は執筆時のものです)

京都の魅力を訪ねて(1)

京都史愛好家(京都検定一級合格者) 井田恭敬

水平軸と垂直軸

 私が京都の魅力に嵌(はま)って十数年、その奥深さに魅かれ、暇を見つけては通ってきました。新幹線が京都に近づき、琵琶湖越しに比叡(ひえい)の山々を目にすると、年甲斐もなく今でもワクワクします。京都の魅力とは、美しい自然に囲まれた神社仏閣や街並みに代表される現在の姿(水平軸)と、1200年の歴史・文化の積み重ね(垂直軸)の混じり具合いの良さにあるのではないかと思います。
 戒光寺(かいこうじ)という小さなお寺が東山にあります。泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)で、本尊は丈六釈迦如来(じょうろくしゃかにょらい)。一丈六尺(5m40cm)とお釈迦様の身の丈通りの大きな仏様ですが、優しい表情を間近で拝むことができ、多くの人々から親しまれています。このお寺をタクシーで訪ねた時のこと。運転手さんに行先を告げると開口一番、「戒光寺さんはこの間まで京都駅ンとこにあったんですワ」。私が「この間とは、今の京都駅ができた時ですか」と尋ねますと、「イヤ移ったのは太閤さんの時代です」との返事。思わず妻と顔を見合わせてしまいましたが、豊臣秀吉が街づくりをした400年以上昔と今が直結して語られることに、びっくりしました。詳細地図を見るとたしかに京都駅の南側に「戒光寺町」の名が残り、つながりを示しています。
(2015年10月号掲載)

秀吉は知らない「桃山」の名

 日本の歴史時代を示す名称は、奈良時代から平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と、それぞれ政治の中心であった場所から付けられていますが、この中でその当時には実在しなかった地名がひとつだけあります。
 それは、豊臣秀吉が全国支配を担った「桃山」時代です。秀吉は政権の最盛期、京都伏見(ふしみ)に大政治都市を築き、丘陵上に近世城郭(じょうかく)史上最も豪華と云われる「伏見城」を建立しました。
 城は秀吉の死後、徳川家康が引き継ぎましたが、1623年に徳川家光の手で廃城となり、建造物の一部は各地に移されたものの城跡は徹底的に取り壊されました。一帯は瓦礫(がれき)の残る荒れ山となり、耕作することもできないため、桃の木が植えられました。
 その後、江戸時代中期にはここが美しい桃の花の名所となり、いつしかこの山は「桃山」と呼ばれ、併せて秀吉の時代を「桃山時代」というようになったといいます。
 今この地は明治天皇陵や運動公園となっており、一角に城の天守閣が再現され、京都駅の新幹線ホームなどからも遠望できます。この建物は50年ほど前にできた遊園地の中に「伏見桃山城」の名で造られたものですが、近年遊園地は閉鎖され、残念ながら入場できなくなりました。
 天守閣は伏見の町の往時(おうじ)を偲ぶシンボルとなっています。
(2015年12月号掲載)

京の都は東山から始まった

 京都盆地の東に、稜線(りょうせん)を描く東山。北は比叡山(ひえいざん)から南端の稲荷山まで36峰が連なり、「布団着て 寝たる姿や 東山」と詠われています。
 この峰々の真ん中あたりに平安京始まりの地といわれる「将軍塚」があります。八世紀末、桓武(かんむ)天皇は古代氏族や寺院などの勢力から逃れ、新たな政治を始めるために平城京から長岡京に遷都(せんと)しましたが、さまざまな災厄に見舞われ、都の造営を進めることができませんでした。
 そんな折、天皇は東山に登って京都盆地を見渡し、この地が四方を司る神々に守られ、山川の美しさや交通の便の良さに優れることに気づき、改めて遷都を決意したといいます。そして末永く平和な都を造るという願いを込めて「平安京」と名付けるとともに、都の安泰を守るため大きな将軍像を作り塚に埋めよ、と命じたとの伝説が残ります。
 平成25年、この将軍塚の隣地に、麓(ふもと)にある青蓮院(しょうれいいん)が国宝の仏画「青不動」を安置する護摩堂(ごまどう)「青龍殿(しょうりゅうでん)」を建立。併せて山からせり出す大舞台を設しつらえました。ここからは眼下に京都市街を一望し、周囲の山々から遠くは大阪のビル街まで、天空からの大パノラマを楽しむことができます。
 将軍塚は、1200年にわたって山上から京の栄枯盛衰を見守ってきました。今、私たちは同じ地に立ち、京の長い歴史と発展した現代とのつながりを感じることができるのです。
(2016年2月号掲載)

子どもから大人への階段、「十三まいり」

 緑豊かな山々と、桂川(かつらがわ)の大らかな流れに架かる渡月橋(とげつきょう)が美しい嵐山(あらしやま)。京都を代表する絶景として、四季を問わず旅行者の姿が絶えません。
 賑わいを見せる嵐電(らんでん)嵐山駅から渡月橋を南に渡った嵐山の中腹に「十三まいり」で有名な法輪寺(ほうりんじ)があります。ここは、智恵や福徳をもたらす「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)さん」として親しまれています。「十三まいり」とは、数えで13歳を迎える春、少年少女が虚空蔵菩薩に詣(まい)り、智恵を授けていただくという京都に長く続く風習です。江戸時代中頃から広まり、元服におけるひとつの儀礼でもあったといいますが、今では京都市内だけではなく近隣の県からも多くの親子が参詣(さんけい)に訪れています。
 子どもたちは虚空蔵さまに知恵を授けられて寺を出ますが、帰途、渡月橋を渡り切るまで後ろを振り返ってはいけない、振り返るとせっかく授かった知恵が失われてしまうと伝えられます。
 4月13日を中心とする参詣の時期、渡月橋の上では、着飾った子どもたちが、家族の声かけにも絶対に振り向かず、しっかり前を見て足早に歩いて行くという微笑ましい光景が見られます。
 13歳は子どもから大人への節目の時期。これまでの成長に感謝し、子は大人に向かっての自立を自覚し、親は子の更なる成長と幸福を祈る、このような年中行事が京都には生きています。
(2016年4月号掲載)

水路閣に「青もみじ」が美しい南禅寺

 京都には、紅葉の名所が数多くありますが、秋の紅葉が美しいということは「青もみじ」も同様に美しく、5月から6月にかけて木々の緑は鮮やかに、日に日にその色を濃くしていきます。
 その「青もみじ」が美しい東山の南禅寺(なんぜんじ)。境内の奥にある水路閣(すいろかく)は風格あるレンガ造りのアーチに爽やかな緑がよく似合います。テレビのサスペンスドラマの重要場面にもしばしば登場する水路閣は、高さ13mの水道橋で、橋上には今も琵琶湖疏水(そすい)※1 がとうとうと流れています。
 明治初期、事実上の東京遷都によってさびれた京都では、復興策のひとつとして琵琶湖の水を京都につなぎ、物資運搬、灌漑(かんがい)※2 や日本初の水力発電などに活用するという一大プロジェクトを立ち上げました。琵琶湖からトンネルを抜けてきた疏水は一部を分流し、南禅寺境内でアーチ式水道橋を渡り、哲学の道から京都盆地の北部地域に至ります。
 建設計画が示されたときには、南禅寺の関係者から伝統ある寺の閑静な境内を、真っ赤なレンガの連なりで分断することに大きな反発がありましたが、最終的にはこの大事業に協力することになったといわれます。
 それから130年、今は渋みを増したレンガの色が周囲の木々や伽藍(がらん)※3 ともよく調和し、歴史的景観として京都の代表的な観光名所となりました。歳月が芸術作品を創り上げたひとつの好例であるといえましょう。
(2016年6月号掲載)

※1 土地を切り開いて作った水路
※2 川や湖から水を引いてきて農地をうるおすこと
※3 大きな寺院

京都の夏の風物詩「納涼床」は「ゆか?」、「とこ?」

 夏の京都は、盆地という土地柄から厳しい暑さが続きます。この夏を快適に過ごすために人々は、多彩な方法で涼を取る工夫をしてきました。
 そのひとつが川からの涼しい風を受けながら料理を楽しむ納涼床で、鴨川や貴船川(きぶねがわ)には多くの川床が並びます。鴨川の三条、四条あたりでは川沿いの飲食店が建物から床を張り出し「河原の涼み」を楽しませてくれます。その起源は古く、江戸時代初期から祇園祭の頃に料理屋や茶屋が川の浅瀬に床几(しょうぎ)※ を出し、大いに賑わったといいます。しかし鴨川は洪水を繰り返し被害が続出したため大規模な治水工事が行われ、それとともに納涼床は姿を変え、建物と一体の形になりました。一方、鴨川の上流にあり京都の奥座敷ともいわれる貴船では、渓流の川幅をまたぐ大型の床を設しつらえ、清流のせせらぎを間近に渓谷美も楽しむことができます。
 面白いのは「床」の読み方が、鴨川では「ゆか」、貴船川では「とこ」と異なることです。先頃も鴨川の料理店に予約した際、うっかりして「川どこをお願いします」と言ったところ、「川ゆかですね」と柔らかく返されました。お店の人に「ゆか」と言うわけを尋ねると、「鴨川は高床(たかゆか)になっているせいでは?」とのことでした。今では「ゆか」も「とこ」も混同して使われることが多いようですが、呼び方はともかく、「川床」は京都の厳しい夏を和らげています。
(2016年8月号掲載)

※ 折り畳み式の簡易な腰掛け

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